
|}
中央快速線(ちゅうおうかいそくせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)管内である中央本線の御茶ノ水駅から三鷹駅間の複々線区間における優等列車用の線路の通称(正式名称は中央急行線)、およびこの区間を含む東京駅から高尾駅までの快速系電車の運転系統の案内上の呼称である。
当該区間のうち、御茶ノ水駅~中野駅間は東京の国鉄の中で早くに複々線化されたことや、山手線内で複々線の両方に旅客列車が走行し急行運転を行ってきたことから、現在、快速電車や長距離列車などが走る本線は正式には「中央本線(急行線)」と呼ばれる。これは駅構内の出発信号機などの表示などで用いられている。
かつて現在の快速電車は急行電車と称していた。しかし、松本・甲府方面の準急が急行列車(有料)に格上げされ、中央線では有料の急行列車と無料の急行電車が存在することから、混乱を避けるため、無料急行電車を快速電車と改称することとした。
本項の名称として用いている「中央快速線」は、案内上で上記の無料急行電車を改称した「中央線快速電車」などと用いられているものから援用したそれと東京圏で行われた通勤五方面作戦における緩急分離による急行線の呼び名で「快速線」と称したことから、それに倣う形で援用した形となっている。
中央本線の沿革の兼ね合いや運行系統のため、東京圏で単に「中央線」と言う場合には、中央快速線を走る電車(オレンジ色の電車)を指す場合が多い。この運転系統の駅構内での案内方法は、高尾駅~武蔵境駅間(複線)と神田駅~東京駅間では「中央線」、三鷹駅~御茶ノ水駅間(複々線)では「中央線(快速)」と案内される。ラインカラーは201系の車体色およびE233系の帯色である■オレンジバーミリオン(国鉄朱色1号)である。なお、中央快速線に限らず、JR東日本の東京近郊区間では「車体の色=(運転系統としての)路線色」を徹底している。
京阪神間の東海道・山陽本線の複々線区間(京阪神緩行線も参照されたい)には、中間のターミナル駅などに渡り線が設置され、柔軟な運用を行っているが、一方、中央快速線は貨客分離を優先とした大改修を行った上で旅客化されていることや、改修に際して渡り線を複々線区間の出入口に当たる地点にのみ設けた関係で、各駅停車以外は快速も特急もすべてこの路線で運行されている。そのため、特急の通過待ちをしている快速が緩行線の電車(各駅停車)に追い抜かれるダイヤがある。
日本の鉄道の割には定時性はあまり良くない。ラッシュ時に5~6分程度の遅れが頻繁に発生するので、終日定時運行するのは1か月で1日あるかないかである。これは乗客の多さと、1時間に最大30本という超過密ダイヤが主な原因である。2分に1本のペースは、10両編成での高速鉄道運行の限界である。他にも、人身事故の多さや、30分に1本走る特急や特別快速、通勤ライナーなど多種多様な列車種別があること、青梅線などの支線が多く運行形態が複雑などといった理由もある。他の東京近郊路線が15両編成で運転できるのに対して、中央快速線では最大10両編成と輸送力が低いため、混雑緩和が難しい。
thumb|none|250px|中央快速線用[[国鉄201系電車|201系(2001年5月13日、高尾~相模湖間)]]
東京駅を発車すると、左手に大手町の高層ビル街を見ながら近代的な高架線を下っていき、一層下の山手線・京浜東北線とフラットレベルになると首都高速八重洲線(地下)と交差、日本橋川と直上の首都高速都心環状線を潜り渡り神田駅に到着する。
高尾寄りで国道17号(中央通り)を跨ぐ。この付近は中小ビルが連なる中で商店も多く軒を連ねている。間もなく緩やかに左へカーブし山手線・京浜東北線から分かれる。間もなく交通博物館および万世橋駅・昌平橋駅の跡地が見えると右手から神田川が近付く。間もなく中央・総武緩行線のアーチ橋が見え、中央・総武緩行線が33‰の急勾配を一気に駆け下り合流し聖橋を潜ると御茶ノ水駅に到着する。同駅は神田川を通すため武蔵野台地を削った谷にあり、都心部とは思えない崖に引っかかっているような駅となっている。駅周辺は日本最大の学生街であり、日本大学や明治大学など多くの教育施設がある。
御茶ノ水駅から複々線区間に入る。右へ左へとカーブを切りながら方向別複々線から路線別複々線となり、左手から崖がなくなると水道橋駅に到着する。駅北側に東京ドームシティがあり、東京ドームでの巨人戦やイベント開催時には大変混雑する。
水道橋駅を発車して間もなく首都高速5号池袋線を潜り、神田川と別れ、左手に日本貨物鉄道(JR貨物)の本社ビルが見えてくる。ここはかつての飯田町駅の跡地である。甲武鉄道のターミナルとして開業し、近年は紙の物流基地として栄えた飯田町駅だが、開発の進んだ現在はほとんどその面影がない。間もなく飯田橋駅に到着する。この駅は急カーブ上にあり、南西へ向きを変える。駅西側の神楽坂はかつて花街として栄え、東京都道・埼玉県道25号飯田橋石神井新座線(早稲田通り)沿いの商店街には瀬戸物屋や和菓子屋など老舗店舗が立ち並んでいたが、近年はチェーン店やコンビニエンスストアなどに押されてしまい、急速に減少している。商店街から路地に入るとそこは閑静な住宅街であり、その中にレストランや料亭などが立ち並ぶ。
飯田橋駅を発車すると見えてくるのは旧江戸城の外堀となる。お堀の堤には青々と草が生え、桜の木も多くさながら都会のオアシスのようである。市ケ谷駅下の外堀には釣り堀があり、毎日のように釣り人で賑わっている。
thumb|right|250px|[[四ツ谷駅|四ツ谷~信濃町間で首都高速4号新宿線と並走するE233系(2007年4月28日撮影)]]
市ケ谷駅を発車すると並行していた外堀が消え、左へカーブし南を向くと四ツ谷駅に到着し、国道20号(新宿通り)と東京地下鉄丸ノ内線を潜る。高尾寄りがカーブ上にあり、再び南西を向く。
四ツ谷駅を発車すると間もなく御所トンネルを抜ける。このトンネルは赤坂離宮(現・赤坂迎賓館)を潜るため、離宮内の土を開削しトンネルを建設した後再び廃土を埋め戻す、地下鉄の開削工法のような手間のかかる工事が行われた。御所トンネルを抜けると新宿区に入り、左手から首都高速4号新宿線が近付くと信濃町駅に到着する。
間もなく左手奥に明治神宮外苑が見えて渋谷区に入る。さらに右手に新宿御苑が見えると千駄ケ谷駅へ。並行していた首都高速4号新宿線が左へ分かれると右へカーブして北を向き、山手線・埼京線・湘南新宿ラインと合流して代々木駅に到着する。
間もなくルミネが見えると勾配を下り再び新宿区に入り、国道20号(甲州街道)を潜ると新宿駅。JR以外に小田急小田原線・京王線・西武新宿線(西武新宿駅)の大手私鉄3社、東京地下鉄丸ノ内線と東京都交通局を含めると5社局が接続する一大ターミナル駅である。JRの1日の平均乗降者数が150万人(2005年度)で日本一、さらに接続する5社局7路線の乗降者数を含めると346万人(2004年度)に達し、日本一どころか、世界一である。
駅東側はかつて甲州街道の第1宿(内藤新宿)や青梅街道が分岐する交通の要衝として発達し、伊勢丹などの老舗デパートや専門店・飲食店が立ち並び日本有数の繁華街となっており、特にスタジオアルタなどは全国的に知名度が高い。また繁華街に北接する駅北東側の歌舞伎町は日本有数の歓楽街であり、飲食店やホテルが軒を連ねている。
一方の駅西側は戦前まで行楽地であったが、高度経済成長期の1960年代から1970年代にかけて小田急百貨店・京王百貨店・ヨドバシカメラが開店し、1971年に淀橋浄水場の跡地に建てられた京王プラザホテルを皮切りに続々と高層ビルが建設された。さらに1991年に千代田区丸の内から東京都庁が移転し、現在は新宿副都心として都心部に次ぐ商業集積地帯となっている。駅南側は再開発によって商業化が進み、前述のルミネのほか、新南口に隣接してタカシマヤタイムズスクエアがある。
その先も緩やかにカーブし、カーブを抜けて西を向くと再び神田川を渡り中野区に入って東中野駅に到着、ここからはるか先の立川駅まで長い直線区間となる。
東中野駅を発車し、東京都道317号環状六号線(山手通り)を潜ると、右手に桜並木が見える。桜が満開の春には飯田橋~市ケ谷間と並ぶ絶好の撮影ポイントとなっている。左手に中野電車区が現れると東京地下鉄東西線が地上に出て合流し、中野駅に到着する。
同駅周辺は中野サンプラザや中野ブロードウェイを中心に繁華街が形成されて賑わいを見せている。高架駅だが、高架が低い上構内が広いためか、地上駅の様相を見せる。この先一旦高架線を降りるが、間もなく杉並区に入ると再び高架線を上る。
高架線の下には住宅街が広がっているが、高円寺駅・阿佐ケ谷駅周辺はコンパクトに収まった商業地帯となっている。高架線の下に住宅街が迫り側道を作る余裕がないため、この区間の高架下には歩行者専用道路を作るなどの苦慮が施されている。一旦高架線を降り、東京都道5号新宿青梅線(青梅街道)を潜ると荻窪駅に到着する。東京都道311号環状八号線(環八通り)を跨ぐと再び高架を上り、善福寺川を渡る。
西荻窪駅は東京女子大学を中心とした文教地区にあり、駅周辺にはアンティーク雑貨店や古書店が立ち並んでいる。また一方で新興宗教の関連施設も多く、かつてオウム真理教の主要施設があったことでも知られる。発車すると間もなく東京23区を抜け、武蔵野市に入る。
東京都道7号杉並あきる野線(五日市街道)を跨ぐと大規模な繁華街に入り、吉祥寺駅へ。水道橋にあった同名の寺院の門前町の住民が五日市街道沿いのこの付近に移住し開墾したことから始まり、現在では京王井の頭線と接続して多摩地区有数の商業地帯となっている。発車すると間もなく両側の高層ビルはなくなり、再び住宅街を走る。駅から北へ15分のところには成蹊学園がある。また、南口は歓楽街として、夜になると別の顔を見せる。
そして再び高架線を下ったところが三鷹駅となる。駅直下に玉川上水が流れ、武蔵野市と三鷹市の市境となっている。北側(武蔵野市)には官公庁の施設が多く、南側(三鷹市)には南北に商店街が伸びている。ここで複々線区間は終わる。
三鷹駅を発車すると左手に三鷹車両センターが見えてきて、跨線橋をくぐると間もなく高架線をのぼる。再び武蔵野市に入り、左手の日本獣医生命科学大学を過ぎると武蔵境駅に到着する。甲武鉄道開業時からの駅であり周辺には商業施設も多いが、三鷹・吉祥寺の両駅に近く商業地帯としてはあまり大規模なものではない。
西武多摩川線の高架が地上に降りて左手に分かれると間もなく小金井市に入る。東小金井駅周辺は東京農工大学や法政大学など実に大学6校と高校3校が所在する文教地区だが、北口・南口共に大規模な商業施設はなく、少し閑散とした様相である。
武蔵小金井駅の手前(地上)には、開かずの踏切の代表格であり、2003年に高架工事ミスおよびそれによる踏切距離拡幅障害が起きた東京都道15号府中清瀬線(小金井街道)の踏切がある。同駅を発車すると高架線から電車庫に通じる線路が分かれて下っていく。駅北西方向には東京学芸大学がある。右手に豊田車両センター武蔵小金井派出所(旧・武蔵小金井電車区)を見ながら間もなく国分寺市に入る。
東京経済大学を左手に見ながら高架線をおりると、間もなく東京都道133号小川山府中線(国分寺街道)を跨いですぐ堀割となり、国分寺駅に到着する。元々快速と各駅停車のみの停車駅であったが、駅周辺の再開発によって大きく変貌し、現在では特別快速・通勤快速・通勤特快の全列車と成田エクスプレスが停車するようになった。また並行してホームがある西武国分寺線との間にはかつて渡り線があり、貨物列車の受け渡しが行われ、甲武鉄道時代には飯田町~川越(現・西武新宿線本川越駅)間直通列車まで運転されていた。さらにかつて下河原線が分岐し、廃止後もホームが残されていたが、駅構造が大きく変化した現在ではその面影はほとんどなくなり、高尾寄りの線路脇に廃線跡が残るのみである。
国分寺駅を発車すると右手に西武国分寺線が並行するが、野川を渡ると間もなく分かれ、左側に住宅街と姿見の池緑地保全地域を見下ろす。かつては左手に中央鉄道学園があり、前述の下河原線の廃線が中央鉄道学園への引き込み線として使用されていた。現在跡地は再開発が進められており、西側が団地、東側が武蔵国分寺公園となっている。旧鉄道学園は線路よりやや高くなっている。間もなく再び切り通しに入り、西国分寺駅に到着する。同駅は住宅街に囲まれているため乗降客はそれほど多くないが、武蔵野線に接続するため乗り換え客が多く、特に朝夕ラッシュ時は混雑する。
西国分寺駅を発車すると間もなく府中市をかすめるが、駅はなくすぐに再び国分寺市に入る。勾配を上り切ると上下線の間が広がり、間から武蔵野線の短絡線が地上に出てくる。下り勾配となって短絡線と合流し、国分寺崖線を越え国立市に入る。間もなく掘り割りを出て盛土高架となり、左手に高架用地が現れる。国立駅は箱根土地(後のコクド、現・プリンスホテル)の堤康次郎が計画した学園都市の最寄り駅として開業した経緯があり、駅南口から南・南西・南東の3方向に放射状に道路が伸びる。三角屋根の国立駅旧南口駅舎の屋根の形状はこの道路の形状を現していると云われる。南へ延びる東京都道146号国立停車場谷保線(大学通り)に沿って一橋大学や桐朋中学校・高等学校など教育施設が多く立ち並び、駅から2km程南進したところに南武線の谷保駅がある。また北側(所在地は国分寺市)には鉄道総合技術研究所があり、かつて同駅から引き込み線があったが、2004年に廃止され、現在その跡地は自転車駐輪場となっている。国立駅を発車するとほぼ地上に降り、両側に住宅街を見て走る。左側は学園都市の計画によって碁盤状に整備されている。
立川市に入ると次第に国立市から続く住宅街から商業地帯へと入っていく。前方にルミネが見え、左手から高架用地が消えると間もなく左手から南武線が合流、東京都道・埼玉県道16号立川所沢線(立川通り)を跨ぎ、立川駅に到着する。高尾寄りで直上を多摩都市モノレール線が跨いでいる。同駅はかつて日本国有鉄道東京西鉄道管理局が所在し、一部の中距離電車も発着する交通の要衝であり、現在は利用客の増加に伴い大規模な駅舎改良工事が進んでいる。また駅周辺は多摩地区でも随一の繁華街であり、北側・南側共に商業施設が軒を連ねている。
切り通しが終わり、武蔵野台地を抜けると残堀川を渡り築堤となり、東京都道29号立川青梅線(新奥多摩街道)を跨ぐと多摩川を渡り、日野市に入る。日野駅は東京都道256号八王子国立線(甲州街道)との交差部の築堤上にあり、利用客に対してホームが大変狭く、危険な状態になっている。日野市の中心部にあり、駅周辺には商業施設が広がる。
日野駅を発車すると中央自動車道を潜り、日野台地に入る。切り通しに入ると鉄道総合研究所の研究施設と共に本線に挟まれたホームのない待避線が現れる。開業時はこちらに日野駅が設置され、1937年に現在地に移転した後も同駅発着列車の折り返しに使用されていたが、発着列車がなくなった現在では一部の回送列車や臨時列車が使用するのみである。
国道20号(日野バイパス)を潜ると日野台地を抜け築堤となり、緩やかに右へカーブしながら勾配を下っていく。カーブを抜けたところが豊田駅となる。同駅は日野台地南端の崖下にあり、駅北側は商業施設や工場が多いが、駅南側は北側ほど開発が進んでおらず少し閑散としている。発車すると間もなく左手に豊田車両センターが広がり、201系やE233系、115系など様々な車両を見ることができる。周辺は住宅街だが、大規模な農地も多い。
右へ大きくカーブしながら新駅設置予定地を抜けて勾配を上ると切り通しに入りすぐに左へカーブする。ここは中央線で非常に有名な撮影スポットの一つで、列車の撮影をしている鉄道ファンの姿を目にすることも多い。そして切り通しと八王子盆地に入り、浅川を渡ると八王子市に入る。再び大きく右へカーブし北西を向くと右手に八王子卸売市場などの大型商業施設と日本オイルターミナルの引き込み線を見ながら勾配を上り、国道16号(八王子バイパス)を跨ぐと右手に八王子(貨物)駅(八王子オフレールステーション)を見る。前方にそごうが現れると間もなく京王線を跨ぎ、右手から八高線が合流、さらに左手から横浜線も合流し、八王子駅に到着する。かつて八王子機関区も所在し、現在もJR東日本八王子支社とJR貨物八王子総合鉄道部が所在する多摩地区の交通の要衝であり、構内には多くの側線がある。駅北側はかつて甲州街道最大の宿場(八王子横山十五宿)であり、多摩地区の経済的中心として古くから発達、官公庁施設や大規模な商業施設が立ち並び、近年は中央大学を初め多数の大学を擁する学生街、学園都市として大きな繁華街を形成している。駅から北東へ0.4km程離れた繁華街の東側には京王線京王八王子駅がある。一方で駅南側は再開発が進んでおらず、古い町並みが残っている。
発車すると前方には関東山地が現れ、市街地から抜け住宅街をほぼ一直線で抜けていくが、2km程走ると右手に駐車場と化した空き地が見える。ここは東浅川駅の跡地である。同駅は大正天皇の大喪列車の終着駅として設置され、その後も皇室の多摩御陵参拝に利用された。廃止後駅舎は八王子市に下賜され「陵南会館」という集会施設となっていたが、1990年の過激派による放火で焼失してしまった。
東浅川駅跡地を過ぎると右へカーブしながら勾配を上り、東京都道47号八王子町田線(町田街道)を跨ぎ勾配を上りきったところが高尾駅。左手に京王高尾線の高架線が見える。同駅は八王子盆地の西端にあり、駅北側と西側は共に山が迫る。駅南側は開発が進み、住宅街が広がっている。
国鉄時代より中央線は高尾で運行系統が分断されているが、1986年末より大月直通が増えていき、現在では高尾~大月間も中央線の通勤電車区間となり、ラインカラーにもオレンジが追加されている。
グリーン車の扱いは首都圏の通勤ライナーとは違い指定席扱いとなる。
E233系のフルカラーLED式行先表示器では赤色、201系の方向幕では紫色で表わされる。
大月・青梅始発各2本・高尾始発1本の1日5本が運行されている。時間帯は立川到着7時台2本・8時台3本。立川と国分寺で快速と接続するほか、豊田・武蔵小金井・三鷹・中野で快速を追い越すこともある。
その他、このグループには ホリデー快速「おくたま」「あきがわ」が含まれる。
中央特快と青梅特快の違いは国分寺駅に停車するかどうかだけであったが、1993年4月10日のダイヤ改正から青梅特快が同駅に停車するようになった。これにより基本的に中央特快と青梅特快の中央線内での停車駅は統一されたが、新宿駅始発の中央特快は中野駅を通過する。これは、新宿駅で後続の快速が同駅到着後に発車することから、中野駅に停車する必要性が低いなどのダイヤ上の理由が挙げられる。ただし、ホリデー快速の「おくたま」「あきがわ」は新宿駅始発だが、中野駅にも停車する。
E233系のLED式行先表示器では中央特快が青色、青梅特快が緑色で表わされるが、高尾方面の列車はそれ以下の列車も含めてすべて各駅に停車するようになる立川からは種別が表示されなくなる。201系の字幕式行先表示器でも中央特快が青色、青梅特快が緑色で表わされる。
日中は1時間あたり4本前後の割合で中央特快と青梅特快がおおよそ3対1程度の割合で運行されている。原則として国分寺と三鷹、さらに一部は立川で快速または各駅停車に接続する。立川接続は青梅特快に多く見られる。
一部の中央特快は豊田駅・高尾駅(下りのみ)・相模湖駅・四方津駅のいずれかで特急の通過待ちを行うことがある。特に高尾駅以遠発着の列車(大月駅始発など)はそのほとんどが途中で特急に追い抜かされる。ちなみに青梅特快が特急の通過待ちを行うことはない。
なお、同じ「快速」を名乗るものとしては八王子~国立(通過)~大宮間(武蔵野線経由)の快速・ホリデー快速「むさしの」と快速・「ホリデー快速河口湖」がある。前者は中央快速線内では立川と八王子のみに停車し、後者は(新宿)、(三鷹)、立川、八王子、高尾に停車する(1・2号のみ停車)。
1960年代の中央線複々線化工事の際には高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪にホームを建設しない予定であったが、高円寺駅周辺の商店街や沿線住民を中心とした運動により土曜日を含む平日に限り停車することになった。その後、土曜日も通過するようなダイヤに変更する際も反対運動が行われた。なお、多摩地区の市議会議員には平日の通過を政策に掲げる者もおりhttp://urano.age.jp/kouyaku.html>、現状に不満がある利用者も一定数いる模様である。
thumb|right|250px|各駅停車表示のある方向幕
各駅停車と快速の区別は停車駅の他に走行線路を含めて決まる。各駅停車は水道橋~三鷹間で緩行線ホームに発着する。終電に運行される高尾発中野行各駅停車は快速と全く同じ停車駅だが、三鷹~中野間を緩行線で運行するため「各駅停車」の表示を使用する。そのため早朝・深夜帯では中央快速線の電車と中央緩行線の電車が同じ車両を使い、それぞれ別のホームから発車するため、誤乗が起きることがある。
また、三鷹駅以西のみを走行する電車(武蔵小金井駅・立川駅始発の下り電車など)については201系・E233系ともに種別が表示されないため快速扱いだが、実際の車内放送や構内放送は始発駅から終点まで通して各駅停車と案内されるため、実質各駅停車といえる。全国版の時刻表での中央本線の項にて早朝の立川発大月行の電車についてはJTB時刻表の場合JRの扱いをそのまま記載していたため「立川・高尾間快速」との記述がなされていたが、現在は単に立川~高尾の列車番号が記述されている。JR時刻表では現在も「立川・高尾間快速」が残されている。
なお、青梅線方面の特快系(通勤特快・青梅特快・通勤快速)の列車は必ず立川か国分寺で高尾方面の快速・各駅停車に接続して、八王子・高尾方面からも利用できるようになっている。逆に青梅線方面の快速・各駅停車が高尾方面の特快系(通勤特快・中央特快・通勤快速)の列車に接続することも多いが、こちらは全てではない。
東京~立川間では、快速は主に三鷹と国分寺で優等列車と接続したり、特急・ライナーなどを待避したりする。そのため、目安として中央特快、青梅特快、通勤快速、特急、ライナーの3本前の快速は途中優等列車に抜かれずに東京~立川間を走ると見ることができる。ただし、下り3本前の列車は立川で青梅線方面の優等列車からの接続待ちを行うこともある。通勤特快はより多くの快速を追い抜くため、5本前からの快速は通勤特快に追い抜かされる(すべて上り立川・下り東京発時点)。
基本的に当系統路線の下り電車は、終日ほとんどの時間帯で上り電車(東京行)の折り返しとして運行している。東京駅周辺に中央線の引き上げ線や車庫はなく、ホームも1面2線と設備が乏しい。そのため、平日朝の大量の東京行の電車はそのまま折り返し下り電車として運行しなければならず、30秒もしないうちに次々に折り返していく。武蔵小金井駅以東では8時台後半~9時台に2分おきという大量の下り方面の電車が走る。
※高尾以遠の区間はこれらのいずれの種別も各駅に停車(駅一覧は中央本線を参照)。
快速(通勤特快・中央特快・青梅特快・通勤快速を含む)/早朝・深夜の各駅停車
2008年3月末までに201系からE233系への置き換えを完了するが、201系は置き換え完了後も予備車として2編成残存させる予定である。
中央ライナー・青梅ライナー
中央ライナー・青梅ライナー
101系は、最初に中央線で運行を開始したことからもわかる通り高速での運行をある程度考慮した設計だが、元々山手線用に開発された103系は、高速運転にやや不向きであった。一方、101系は当初の設計よりM車比を落としたため性能が限界に近く、冷房装置を載せると加速力が落ちたり主電動機が過熱するため、一部の限定運用車以外は冷房装置の搭載ができなかった。なお、103系は総武緩行線や南武線の冷房化率を向上させるため、101系よりも早い時期に全車両が他線に転出した。
最初に設定された時点では、分割対応編成は奥多摩・高麗川・河口湖乗り入れ運用をこなす4両編成が東京寄りに連結される編成を組んでいたため、この4両編成が乗り入れる区間から女性専用車が設定されていた。しかし、2007年3月18日のダイヤ改正以降はE233系による編成分割運用が登場し、201系の分割対応編成も運用共通化のため編成の組み換えを実施した。分割対応編成は東京寄りに6両編成が連結される組成になり、女性専用車が4両編成側から6両編成側に移動したため、翌3月19日の列車からは設定区間が変更されている。
201系の一部編成では女性専用車であることを分かりやすくするため、1号車に女性向け商品の車体広告がラッピングされていた。また、2006年12月から運転を開始したE233系では、1号車のみすべての吊り手や網棚の位置を優先席と同様に低くする工夫がなされている。
なお、中央線では1912年(明治45年)1月31日に昌平橋(同年4月1日万世橋駅開設に伴い廃止)~中野間の登下校時間帯の電車に婦人専用車を連結したのが始まりで沢和哉『日本の鉄道ことはじめ』築地書館、1996年 pp.95-97 ISBN 4-8067-5595-8。戦後は1947年5月5日~1973年8月31日にも婦人子供専用車を設置していた。また、1957年に二等車を廃止した代わりに老人幼児優先車を翌年まで連結していたことがある。
御茶ノ水~中野で複々線が建設され、1932年(昭和7年)に完成した。計画当初は貨物輸送力の増強を図る目的であったが、複々線全線完成後一部時間帯に急行電車を運行させ、旅客輸送力の強化が図られた。また、この計画と同時に総武本線両国~御茶ノ水間についても高架鉄道として建設され、この結果東京始発のものをラッシュ時には急行電車として運転することとなり、各駅に停車する列車は一部の時間帯に総武本線へ乗り入れることとなった。
第二次大戦後、俗に言う「通勤五方面作戦」で中野以西の輸送力の増強を図ることになり、1966年(昭和41年)に中野~荻窪間の複々線化が完成し、中央緩行線の電車と営団地下鉄東西線(現・東京地下鉄東西線)乗り入れの列車がこの区間に運行されている。なお、1969年(昭和44年)には複々線区間が三鷹まで延長された。だがそれ以降計画はほとんど進まず、三鷹から立川間の複々線化がなされる気配はない。
なお、複々線化と列車運行とが軌を一にしないのは、いわゆる中電とも称される甲府方面の列車の多彩さ・煩雑さと、すでに1960年代までに沿線の都市化が進行していたためとされる。
工事は1999年(平成11年)から始まり、2006年(平成18年)10月までに5回の仮線への切り替え工事が行われた。当初は2007年(平成19年)の春頃に三鷹~国分寺間の下り線が高架に切り替えられる予定だったが、若干遅れ同年7月1日となった。西国分寺~立川間は2005年(平成17年)9月に上り線が、2006年10月に下り線が仮線に切り替えられた。詳しい工事予定は、JR東日本八王子支社のホームページプレスリリース(PDF)および小金井市公式ウェブサイトの記述JR中央本線(三鷹~立川間)他連続立体交差事業の概要を参照されたい。
高架化は西国分寺~立川間が2010年、三鷹~国分寺間(上り線)が2008年秋頃である。その後、仮線路の撤去などが行われ、最終的な完成は2011年を予定している。
なお、国分寺駅西側から国立駅東側までは、現行の掘割の形を維持するため、大規模な工事は行われない。
この前代未聞の事件に各種メディアはトップでJR東日本を批判した。「同社が関連会社に工事を丸投げして監督責任を怠っていたこと」「東海旅客鉄道(JR東海)が東海道新幹線品川駅工事の時に事前に工事リハーサルを行ったなどの例に比して、これだけの大規模な工事をぶっつけ本番で一挙に行う半ば無謀な計画であったこと」「工事前後で踏切による交通遮断時間が2倍近く伸び、遮断機が下りる前に渡りきれないなど交通障害が余計ひどくなったこと」などが槍玉に挙げられた。これらの批判を受け、JR東日本は歩行者・自転車用に架道橋を設置したりした。
9月28日にJR東日本は記者会見を行ったが、その中で「もっとバスを借りられるように手配すべきであったが、ここまでの事態は予想できなかった。しかし、すべての乗客をそもそもバスに振り替えるのは無理。バス輸送は補完的なもので、隣接する私鉄に回って、と前からお願いしていた」と発言し、さらなる批判を招いた。
また、この約2週間後には京浜東北線で線路上に置き去りにされた保線用のスコップを跳ねて朝のラッシュ時に長時間にわたって運転を見合わせるという事故も発生し、一連の不手際に対して、国土交通省はJR東日本に業務改善命令を下した。
いわゆる“開かずの踏切”に加え、仮線に切り替えられたことにより踏切の幅が広くなり、渡りきれないなどのケースが続出した(翌2004年の7月と11月に行われた仮線への切替工事により、仮線切替前の横断距離に戻った2004年7月21日、11月9日付け交通新聞ほか、2007年6月30日の下り線高架化により遮断時間・横断距離が短縮されている)。
また、この後に実施された三鷹~国分寺間下り線の仮線化工事に際しては、切替工事に対するリスク管理のため、2004年5月19日付け交通新聞切替区間を分割して実施された。以降実施された切替工事に関してもリスク管理の徹底が図られ、すべて予定時間内に完了している。
三鷹駅~立川駅間の複々線化は1970年代にはすでに計画されており、そのさなかに開業した西国分寺駅のホーム構造を見れば明らかなように用地は確保されていた。しかし、複々線化工事の着工に手間取っているうちに法改正がなされ、高架化する際には、脇に側道を整備することが義務付けられたため、複々線の用地を環境側道に転用することになってしまった。このため、仮に複々線化が実現したとしても「緩行線は高架・快速線は地下」という構造になる見込みである。ただし、国分寺駅西側から国立駅東側までは掘割であり、既存線に並行して複々線を設置する用地もある。
この複々線を利用する特急列車などの優等列車が三鷹駅から大深度地下を利用した高速地下鉄道によって新宿駅を経由し、東京駅で京葉線につなげるという構想もある。
京王と競合関係にある新宿~八王子間での比較(京王線は新宿~京王八王子間)を例に比較してみる。
En:Chūō Rapid Line